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学園坂出版局よりお知らせ
・映画監督・坂上香さんの講演会「対話するってどういうこと?」を開催します。(8/22更新)
・ユリコさんのエッセイ風論考「家族について考える」6を公開しました。(11/21更新)
・2023年12月1日、小笠原もずくバンドライブを開催します。(11/11更新)
・2022年9月10日『生かされる場所』のCD発売記念ライブが開催されます。詳細はこちらをご覧ください。(8/5更新)
・「思想ゼミ」宇野邦一さんの連続講座を「器官なき身体と芸術」vol.15(2022年2月)でいったん終了します。アーカイブ視聴のお申し込みは受付中です。(3/13更新)
学園坂出版局ではジャンルを問わず、さまざまな書き手によるエッセイを掲載していきます。第1弾は、異色の福祉施設職員・ユリコさん。音楽や法学を学び、パレスチナでボランティア活動もされていたというユリコさんのふわりとした文体、それでいて実は思考の緊張を強いられるテーマ。わたしたちは果たしてこのエッセイからどんなことを汲み取れるでしょうか。全10 回を予定しています。
掲載日.2021/09/09 essay No.3
家族について考える 3
ユリコ
家庭的ってなに?
7月から、ひと月に4日ほど、事務仕事から離れて子どもたちの生活寮で仕事をすることになった。もし可能ならば再び寮での仕事がしたい、という思いがずっとあったため、願いが少し叶った形だ。約2年ぶりに自分がもともと勤務していた寮に入って仕事をしていると、知らない間に「たまに来る甘々のおばあちゃん」の役割を担うようになってきた感じがする。年齢的にも、他の職員は20代が殆どなので、ちょうどおばあちゃん役がぴったりというところかもしれない。
2年前、寮の職員として就職したばかりの時には、「やらなきゃならないこと」に追われながら、自分の手際の悪さや無能さに呆れながら、ただただ必死に仕事をこなしていたように思う。でも今は「たまに来るおばあちゃん」役なので気が楽で、ちょっと視野も広くなった気がしている。今の私が寮で「やらなきゃならない」ことは家事をしながら「子どもたちの安全・安心を守る」ことだけなので、そんなに力む必要もなく、以前から好きだったことばをたびたび思い出しながら子どもに接している。私の好きなことばというのは、「生きてりゃビリでも一等賞」(祖母の口癖)、「みんな違ってみんなダメ」(イスラム法学者の中田考さんの著書名)、そして、パレスチナのデヘイシェ難民キャンプで暮らすラミアが言った「生き延びること。それが、私たちに残された最後の抵抗の手段なのよ」ということばだ。今の私の関わり方はある意味「いいとこ取り」をしているようで、寮職員には申し訳ない気もするが、今のところ寮職員に「助かる」と言ってもらっているので、そのことばを鵜呑みにしている。(ちなみに寮職員が「助かる」のは人手不足だからだ。このコロナ禍の影響も大きい。)
ところで、児童養護施設は現在大変革の真っ只中にある。それは、2016年に児童福祉法が改正され、その理念を具体化するために2017年の8月に「新しい社会的養育ビジョン」が打ち出されたためだ。このビジョンの「骨格」とされるのは、①市町村におけるソーシャルワーク体制の構築と支援メニューの充実を図ること、②代替養育の全ての段階において、子どものニーズにあった養育を保障すること、である。
児童養護施設が大きく関係するのは、②の方だ。なぜなら、②の内容として、「代替養育は家庭での養育が原則、高度に専門的なケアを要する場合『できる限り良好な家庭的養育環境』を提供し、短期の入所が原則」とされたからである。つまり、児童養護施設等の「施設入所」措置は、「高度に専門的なケアを要する場合」に限り「短期入所を原則とする」方針になり、その代わり、里親支援や特別養子縁組の推進を強力に進めていく方向へと舵が切られたのだ。今後施設は小規模化・地域分散化・多機能化・専門機能強化等を目指し、将来はそこでフォスタリング機関としての仕事を担ったり、「高度に専門的なケアを要する」児童に対して「家庭的養育」をしたりすることとなる。施設はこの流れに沿った運営方針を打ち出さなければ、必要な補助金を国や自治体から受け取ることが難しくなるため、私が働く施設でも今後の施設運営をどのようにしていくべきかの話し合いを重ねているところだ。
「新しい社会的養育ビジョン」はインターネットでも公開されているので、誰でも自由に読むことができる。読んでみて、納得できるところ、賛成するところも沢山あるが、どうしても違和感を持つところが2つある。
まず1つ目は、そもそもなぜ「家庭養育原則」なのか、という理由だ。理由ははっきりと提示されている訳ではない。きっと、これは児童福祉法改正の理念そのものなので、ここでその理由を記載する必要はないということなのだろう。ただ、資料を読むと「愛着形成」のために「家庭養育」が必要だという主張が読み取れる。なぜ「家庭養育」だと愛着形成が可能で「施設養育」だと愛着形成が不可能だとみなされるのか、その理由は記載されず、当然のように「愛着形成」は施設ではなく、家庭でしかできないという前提が作成者たちの共通認識になっていることがうかがえる。しかし、施設内のリビングや広々とした園庭や体育館で毎日他の児童たちと遊び、施設内の色んな立場の職員たちと様々な関わりを持つことで児童が変化していく様を目の当たりにしている私としては、「家庭養育が施設養育よりも良い」「施設で育つのはかわいそう」という前提は、根拠のない信じ込みに過ぎないように感じられる。
そもそも、愛着形成の場となる「家庭」が子どもにとって「安心・安全な場所」であるはずだされ、「家庭」は容易に他人が踏み込めない場所とされているからこそ、家庭内の虐待が放置されやすいことは、児童虐待に関わる人間ならば誰でも何度も目の当たりにしてきた現実ではないだろうか。2000年の児童虐待防止法によって、やっと「法律によって防止すべき暴力が家庭内に生起していると国家が認定し」、「無法地帯であった家族に法律が適用されるようになった」。しかし、未だに「家庭」という壁を突破して虐待する親に介入する権限は、児童相談所に限定的に認められているだけであり「『加害者』を犯罪化するまでには至ってはいない。その点で、法は『中途半端に』家庭へ入っているにすぎない」という1。
それなのに、どうしてこれほどまでに、無邪気に無批判に「家庭養育優先」とし、当然のように良い意味で「家庭的」ということばを用いるのだろう。
2つ目は、「永続的解決(パーマネンシー保障)としての特別養子縁組の推進」ということばだ。パーマネンシー保障とは、「永続的な家庭関係をベースにした家庭という育ちの場の保障」だという。そのパーマネンシー保障として「永続的解決の特別養子縁組は有力、有効な選択肢として考えるべき」とされる。そして「縁組成立後の子どもは、社会的養護に含まれないが、子どものニーズによっては、児童相談所が必要と認める場合、在宅指導措置(児童福祉法第27条第1項第2号)を活用して、社会的にその育ちを保障すべきであり、そのためのサービスが無償で提供されるべきある」そうだ。
マユミちゃんは「特別養子縁組」で伯母さんの家庭にやってきた2。あれは「永続的解決」だったのか。パーマネンシー保障などという日本語は私には分かりづらいのだ。結局のところ、「社会的養護に含まれない」状態にする「永続的解決」を目指したいのではないかと勘ぐってしまうのだ。
職員から子どもに対する権利侵害や子ども同士による権利侵害をどう防ぐか、子どもの人権をどの様に守り、子どもの主体性をどの様に尊重するか等、施設にも難しい問題が確かに沢山ある。でもそれは、「家庭養育」でも同じだ。むしろ、虐待に限ってみても、私が施設で働いてみて学んだのは、養育者による虐待を防ぐことが如何に難しいことであるか、ということだ。養育者が子供のことが好きで、子どもも養育者が好きだという場合、もしくは子どもが養育者に好かれたいと思っている場合、もしくは子どもが養育者に好かれなくてはならないと思っている場合に虐待を発見するのは至難の技だ。
私の働く施設では、虐待防止のために、「子供の権利ノート」を職員と子どもが一緒に読むことを始めとして、子どもが園外の第三者委員に直接電話することができるように第三者委員の電話番号をリビングや事務棟入り口に貼り、寮職員に内容を見せずに困りごとなどを書いて入れられる「みんなのポスト」を置き、職員は年に何度も自己チェックを課され、職員同士でお互いの養育のあり方を確認しあい、研修を受け、年に一度は第三者評価の人たちが全ての子どもたちにアンケートもしくは直接聞き取り調査をするなど、様々な方法をとっている。(「家庭養育」しか知らずに育った私は、これらのうちのいくつかだけでも、「家庭養育」に取り入れられたら良いなと思っている。)しかしそれでもなお、職員に好かれたい、好かれなくてはならないと思っている子どもが虐待を虐待と認識して自ら助けを求めることは本当に難しく、深刻な事故が起こってしまった後で、一体どうして今まで気づけなかったのかと衝撃を受けたことがある。
子どもの人権の問題は、虐待というような特殊な事例に限らない。子どもの「わがまま」や、大人にとっては理不尽(意味不明)な「訴え」をどのように受け止めて応答するのか、教育や支援と称して、実は大人の「期待」や「事情」を子どもに押し付けているのではないか、というような問いを自問したり同僚と話したりしながら、結局は答えが出ずに「難しいなぁ…」というつぶやきで終わってばかりだ。
このビジョンによれば、「永続的解決」後は「子どものニーズによって」支援されるという。しかし、「家庭」の外からどのように子どものニーズをすくい上げるのか、その具体的方法は書かれていない。
違和感の他に警戒感もある。家族や家庭を「良きもの」とする価値観を「国家」が当然のように示すこと(施設運営に必要なお金と引き換えに改革を余儀なくされている施設にとっては、有無を言わさず押し付けられているともいえる)に対する警戒感だ。
明治憲法下では「最も重要な中間団体=『イエ』が、国家権力に対する身分制的自由の盾としての役目を果たすよりは、国家権力の支配を伝達する下請け機関として機能」していたという3。
また、明治民法では「戸主は家族に対して扶養の義務を負う」とされて国家による貧窮救済は極力制限され、家族は戸主・親へ服従するように要請された。この「家」制度を否定するために、日本国憲法では24条第1項で結婚を「両性の合意のみ」に基づくと規定して「家」制度の廃止を宣言し、第2項で結婚・家族に関する法律が「個人の尊厳と両性の本質的平等」に立脚して制定されなければならないとして、「家」制度廃止後の立法原則を明確にしたのだ。そして、「24条が『家』制度を廃止し、『家』の自己責任を要求する救貧制度を認めないことを受けた規定」だからこそ、24条の次に、生活保護制度の根拠となる25条の「生存権規定」があるのだという4。
ところが、である。2012年に発表された自民党の改憲草案には24条に「家族は社会の自然かつ基礎的な単位として尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」という第1項が新設されている。これについては、「家族で互いに助け合うことが憲法上の義務であるとすれば、社会全体の問題である福祉問題について、家族を含む自助の問題に矮小化してしまうおそれ」が生じると懸念されている5。
日本社会の問題について、柄谷行人さんは「全体社会から独立し、かつ抵抗するような部分社会」(中間団体)が無く、「社会がそのまま国家である」ことだ、と指摘している6。これは、「家」が国家権力の支配を伝達する下請け機関として機能していた明治憲法の影響が未だに残っていることの現れでもあるように感じられる。(信田さよ子さんは「母は国家における中間管理職」だと表現している7。)
最近、自分より年上の職員と話して気づいたことがある。この人たちは、日本全体が高度成長やバブルに浮かれていた時に、敢えて、当時は相対的に給料も安くて極端に休みも少なかった児童養護施設に就職した「変わり者」たちなのだな、ということだ。それに加えて、彼らは、もともと非常に貧しかった児童養護施設の環境に異議を唱え、改善するために行政に働きかけ続けて制度を創り、変えてきたという自負がある。その意味で、児童養護施設は、ある意味日本社会では珍しい「全体社会から独立し、かつ抵抗するような部分社会」の一つといえたのかもしれない。
欧米社会とは異なり、政治社会に影響を及ぼすほどの大規模なデモもストライキもめったに起こらない日本社会だ。この日本社会の特殊性も考慮した上で、行政が示す、脱・「施設養育」と「家庭養育」重視の方針を注意深く見ていく必要があるのではないだろうかと考えている。
私が思い浮かべる理想的な「家庭」像を改めて考えてみると、はじめに紹介した3つのことば、「生きてりゃビリでも一等賞」「みんな違ってみんなダメ」「生き延びること。それが、私たちに残された最後の抵抗の手段なのよ」が思い浮かぶ。きっと、私にとって理想的な「家庭」とは、自分がダメな人間だと安心して自覚でき、一人ひとり異なるダメな人間がダメなままで大切にされ、生かされる場所だ。それは言い換えれば、社会のルールや暗黙の了解や常識や価値観から距離を置き、生き延びる術を身につけるための逃げ場所だとも言える。つまり、今の私にとって、施設における「家庭的養育」とは、人の価値の優劣をつけることを当然としているようなこの国家や社会に抵抗するための砦となるような養育を行うこと、だと言えるのかもしれない。この砦は、「全体社会から独立し、かつ抵抗するような部分社会」の一つであるといえるだろう。
私がもしも子どもたちから「どうして勉強しなくちゃならないの?」と聞かれたら、このような砦を自分で作れるように、仲間を見つけることができるように、そして仲間と一緒に砦を作ることができようになるために、と答えると思う。私は若いときにはちっとも勉強しなかったが、大人になってからせっせと勉強しているのは、砦を作り仲間を見つけなければ私は生き延びることができない、と何度も実感させられてきたからだ。
施設の子どもたちは「いつでも大人に助けを求めることができる」と何度も何度も説明され、色々な方法を提示されている。職員は子どもを守るために努力をしていると思う。けれども、例えば、施設に来た当初は職員に対して怯えきった目をして、挨拶をしようにも声を発することすらできなかった子や、職員に対してあからさまな不信感をむき出しにしていた子が、施設で生活するうちに変わっていくのは、職員の関わりの成果の部分よりもむしろ、子ども同士の関わりの結果という部分の方が大きいのではないかと感じることがある。
職員は子どもの傍らにいるけれど、子どもたちは自分たち自身でお互いに関係を作り、職員から独立した社会を作っている。つまり、子どもたちには子どもたちが属する「全体社会から独立し、かつ抵抗するような部分社会」がある。これもまた、ひとつの砦といえるのかもしれない。この砦があるからこそ、職員の顔色ばかりをうかがうのではなく、壁を作ってただ拒絶をするのでもなく、職員に言いたいことを言えるようになり、対話が可能になるのかもしれない。そして、助けを求めることもできるようになるのかもしれないと感じている。
しかしまた、子どもたちの作る社会にも強者と弱者がいて、弱い子どもを力で支配しようとする強い子どももいるし、強い子どもに好かれたくて必死でついていく子どももいる。それに、知らない間に身につけたものさしで自分や他の子の価値を測り、優劣をつけようとしたりもする。だから、子ども同士のいじめや差別や暴力に大人が気づき、これを防ぐこともまた、決して簡単なことではない。
でも、子どもたちが自分たちの仲間の外に頼れる大人がいると思うことができれば、逃げ道があり、逃げられる場所があると思うことができれば、子どもたちはお互いに言いたいことを言えるようになるのかもしれない。だから、子どもがいつでも大人に頼れるように、自分たちの仲間から外れても大丈夫なように、大人たちはいつもしつこいくらいに呼びかけ続け、逃げ道や逃げ場所を示し、関係を持ち続ける努力をする必要があるのだろう。
そしてこれはきっと、「家庭」という砦と「家庭を取り巻く社会」にも当てはまることなのだと思う。
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参照、引用文献など
1 信田さよ子『家族と国家は共謀する』(角川新書、2021)48頁。
2 マユミちゃんのことについては、「家族について考える1、2」に書いています。
3 樋口陽一『近代国家の憲法構造』(東京大学出版会、1994)68頁。
4 若尾典子「家族と人権-『家族』神話からの解放」石埼学・遠藤比呂通『沈黙する人権』(法律文化社、2012)109頁。
5 「憲法24条の改正に要注意!」https://www.chuolaw.com/letter/letter77/letter77-004/
6 「ヨーロッパでは、近代化は自治都市、共同組合、ギルドその他のアソシエーションが強化される形で徐々に起こった。『社会』というのはそういう個別社会のネットワークを指すわけです。それが国家と区別されるのは当然です。ところが日本では、個別社会が弱いために社会がそのまま国家である。」柄谷行人『政治と思想1960-2011』(平凡社、2012)143頁。
7 信田さよ子+温又柔「『母』と『国家』」https://clarus.shin-yo-sha.co.jp/posts/2183