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学園坂出版局ではジャンルを問わず、さまざまな書き手によるエッセイを掲載していきます。第1弾は、異色の福祉施設職員・ユリコさん。音楽や法学を学び、パレスチナでボランティア活動もされていたというユリコさんのふわりとした文体、それでいて実は思考の緊張を強いられるテーマ。わたしたちは果たしてこのエッセイからどんなことを汲み取れるでしょうか。全10 回を予定しています。

​掲載日.2020/10/15 essay No.1

家族について考える1

ユリコ

自分の両手を見ていた記憶

自分は病気か事故で19歳までに死ぬんだ、となんとなく思い込んでいたのに、19歳では死ななかった。予想に反して20歳になってしまってから23歳位まで、毎日のように死にたくて仕方がなかった。でもどうせ自分に自殺する勇気などあるはずがない、と自分をバカにしている部分もあって、よく電車のホームから線路を眺めながら、飛び込んだ後の自分を遊び半分にイメージしていた。

 しかしある日、何気なくホームを歩いていると、電車が入ってきた瞬間に線路に引っぱり込まれるような力がかかった。思いがけない力に驚いてしばらく立ち尽くし、「もしかしたらわたしは本当に自殺するのかもしれない」と怖くなった。そしてその後、頭の一部にシャッターが降りたようになった。自己防衛本能が働いたのだろう。なぜ死にたいのかという理由は、シャッターの向こう側に行って見えなくなった。

 

シャッターのお陰で死にたい気持ちは徐々に薄れていき、その後、自殺せずに生き延びた。自分の両手を見ながら「なんで私はここにいるんだろう、いなければ良いのに。はじめからいなければよかったのに」と思っていた記憶だけが残り、時折自分の両手を見てふと思い出すことがあった。何不自由ない暮らしをしていたはずの自分がなぜあれほど死にたかったのか、不思議に思いつつもシャッターが閉まっているので理由がわからず、「あれがいわゆる『思春期』ってやつか」と思っていた。

 

ところが4年ほど前、とある事件の衝撃でそのシャッターが開いてしまった。事件そのもの衝撃に合わせて、シャッターの向こう側にあったものが散らばり、頭がおかしくなりそうで怖くなった私は、職場の保健センターにいた精神科医に相談して薬をもらい、カウンセラーを紹介してもらった。それから3年間ほど、時折薬を貰いながら定期的にカウンセリングを受け、散らばったもろもろをカウンセラーに話してきた。精神状態が落ち着いてカウンセリングにも行かなくなって少し経ったころ、近所の児童養護施設で求人が出ていることに気づき、私は転職活動を始めた。転職活動は順調に進んだが、最終面接でいろいろなことを話したら疲れがどっと出たため、以前のカウンセラーに連絡をして再びカウンセリングを受けることにした。

 

「児童養護施設に就職することにした」とカウンセラーに話したときには驚かれ、「素手で敵の大本営に突っ込んでいくようなものだ」と強く反対された。でも、私がどうしても決心を変えないのを見て、カウンセラーは「あなたは、自分が救われたいから児童養護施設に就職するんですね」と言った。なんと答えて良いか分からず、しばらく考えてから「それはいけないことなのですか?」と訊いたことを覚えている。カウンセラーも少し考えてから、「いえ、いけないことではないです」と言った。ただ、それをちゃんと自覚しておくように、と釘を刺されたのだろう。

 

シャッターの向こう側にあったもの。それは私が8歳か9歳くらいの時に児童養護施設から来た、4歳年下の従姉妹のマユミちゃん(仮名)と伯母さんのことだった。

伯母さん(母の姉)は女の子が欲しかったけど男の子しかおらず、私を娘のように可愛がってくれていた。私の母も女の子が欲しかったがなかなかできず、3人目でやっと女の子(私)が生まれたので、私が生まれた時には母と伯母さんは2人で大喜びし、「この子は2人で一緒に育てようね」と話したそうだ。だから、小さい頃の私は、母と伯母さんの2人から娘のように可愛がられていた。

 

そんな伯母さんのところに、マユミちゃんがやってきた。私は母と伯母さんに「マユミちゃんのお姉さんになってね」と頼まれて張り切った。末っ子だったので、初めてのお姉さん役が嬉しかったのだ。長期休みのときはいつもお互いに泊まりに行ったり泊まりに来たりして一緒に遊んだ。マユミちゃんは動物好きで兎を飼っていて、我が家に遊びに来たときには、うちにいた中型犬のクロをいつもメチャクチャ可愛がった。クロもマユミちゃんが大好きで、マユミちゃんが来るたびに尻尾をちぎれんばかりに振って飛びつき、大喜びだった。よく2人と1匹で遠くまでお散歩に行った。マユミちゃんはお腹が弱くて、散歩の途中でお腹が痛くなってうずくまることが時々あったので、私は「ちょっと待ってて!」と言って、周りにトイレを貸してくれるお店や家がないか、走り回って探したものだ。

 

マユミちゃんは可愛くてちょっと気が強くて、勉強はできなかったけれどスポーツができて、クラスの人気者グループの一員のようだった。人気者に憧れつつ、地味な「良い子」だった私は、そんなマユミちゃんを少し羨ましく思っていた。でも「良い子」ではないマユミちゃんに伯母さんはよく手を焼いていたようだ。マユミちゃんがいないところで、私に「女の子はみんなユリコちゃんみたいな良い子だと思っていたの。だからマユミを引き取ったのよ。なのに、全然違ったわ。困っちゃうわね~」と冗談ぽく話すことが度々あった。きっと、急にお姉さん役を担わされることになった私に気を使っていたのだろう。

マユミちゃんが伯母さんの家に来た詳しい経緯は知らない。ただ、マユミちゃんが来て間もない頃、2人で一緒にお風呂に入っている時に、「ここに来る前に2つ別の家に行ったけど施設に戻ったんだ。ここが3つ目なの」とマユミちゃんが話していたことを覚えている。

 

小学校を卒業するくらいまではよく一緒に遊んでいたが、お互い成長して少しずつ会う機会が減っていった。マユミちゃんは中学に入学した頃から盗みをしたり性的な問題を起こしたりするようになり、警察のお世話になることもあった。伯母さんがそのたびに激怒して悲しんでいる様子を、私は母からよく聞いていた。大学で教育学を学んでいたという伯母さんは、「私は傲慢だった。教育で人を救えると思っていた」と母に話していたそうだ。

 

18才のころ、伯母さんに末期がんが見つかった。マユミちゃんが問題を起こすたびに病床で怒り、傷つき、病状が悪化し、精神的にもおかしくなって、最後は自分が誰かも分からなくなってしまっていたという。目が覚めるたびに「なんでまだ生きているの?もう死なせてよ」と言っていたそうだ。

伝聞なのは、伯母さんが一番辛い時に、私は一度もお見舞いに行かなかったからだ。その頃の私はなかなかベッドから起き上がることができずに、毎日ほぼ寝て過ごしていた。会えないまま、伯母さんは亡くなった。

 

伯母さんのお葬式の後、マユミちゃんは家を出ていった。

伯母さんのお葬式の日に会って以来、私はマユミちゃんに一度も会っていないし、声を聴いたこともない。母や従兄弟の家には時々マユミちゃんから電話がかかってきていたようだ。電話口で「死にたい」と言っていたという話も聞いた。でも私はマユミちゃんを探さなかった。「ユリコちゃんに会いたい」という電話があったと聞いたのに、探さなかった。

 

「私もマユミちゃんに会いたいよ」と言った私に、母はこう言った。「中途半端な優しさで助けられるだなんて思うんじゃないわよ。マユミちゃんはね、あなたみたいな、なぁんの苦労もしていないような『お嬢さん』とは違うのよ」「自分が溺れそうな人は、全力でしがみついてくるのよ。だから溺れそうな人を助けようとしても、一緒に溺れて二人とも助からないことが殆どなの」「連絡先は教えません。だけど、自分の人生をメチャクチャにされてもかまわないという覚悟があなたにあるなら、伯母さんのように死んでも良いという覚悟があるのなら、自分で探しなさい。そして会いに行けばいい」「あなたは何も分かっていない。自分がどれほど恵まれているか、恵まれているあなたをマユミちゃんがどれほど羨んでいたか、何も分かっていない。」

そう言われた私は怖かったのだ。だから探さなかった。

 

シャッターの向こう側に隠れていたこと。

マユミちゃんと私がいつも比べられていたこと。

私の存在自体がマユミちゃんを傷つけていたと知ったこと。

そして、伯母さんとマユミちゃんが最も辛い時に私は逃げたということ。

マユミちゃんは死んでしまっているかもしれない。

 

伯母さんがまだ元気だったある日、マユミちゃんが先に寝て、私が一人でピアノの練習をしていると、伯母さんが家族写真を持ってきた。「ねぇ、見て。マユミがみんなに似てきたと思わない?本当の家族みたいでしょ」ととても嬉しそうに言った伯母さんの表情をよく覚えている。しかし、その、とても嬉しそうだった伯母さんのことをカウンセラーに話した時、カウンセラーはこう言ったのだ。「…それはあなたにとっては、マユミちゃんを愛していた伯母さんの美しい思い出なのでしょうね。だけど、申し訳ないけれど、マユミちゃんにとって、『本当の家族のように見える』ことを期待されるっていうのはとても辛いことだったのかもしれませんよ」と。

それは私には思いもよらないことだった。確かにそうだ。「本当の家族」みたいになることを期待されるということの残酷な側面に、その時私は初めて気付かされたのだ。

 

私は昨年4月に児童養護施設に転職し、子どもたちが暮らす寮で日々の生活を支援する「児童指導員」になった。慣れない仕事であることに加え、初めての宿直やシフト勤務は大変だったが、「47歳になってやっと自分がやりたい仕事に就けた」という実感があり、嬉しかった。しかし半年足らずで心身ともに疲れて2ヶ月ほど休職してしまい、復職後は同じ施設の事務員として働くことになった。「児童指導員」としての復職は難しいと判断したためだ。

 

最近、仕事をしながらよく「家族」のことを考える。寮で働いていたときよりも、事務員として働くようになった今の方がよく考える。補助金などの申請や報告の事務作業を通して、国や自治体の児童福祉の制度や理念などを意識する機会が増えたためだ。「家庭的養護」「里親委託」「家族再統合」等の目指すべき目標が示され、児童養護施設が国や自治体から補助金等を受けるためには示された目標に沿った事業の実施計画や報告書の提出が求められる。もちろんそのことについて批判をしたいわけではない。批判できるような経験も知識もないし、私が子どもだった頃とは異なり、今は養育者や子どもを孤立させないための様々な取り組みがあることを知って、むしろほっとしているところでもある。

ただ、強者側(お金を配分する側、支援をする側、大人側)が持つ「家族」像に沿って、善意に満ちた支援が進められていくことに対して、どうしても心が軋むのだ。

 

憲法学者の志田陽子さんは「社会のなかに法以前・国家以前の文化として存在してきたようにみえる偏見が、丁寧な公的議論によって歴史経緯を洗い出してみると、公権力により生み出されたものであったり、公権力によって是認・強化されたものであったり、公権力によって助長的に放置されてきたものであった、という事情が見えてくる場合がある」という1

 

「家族」とは何なのだろう。どうして「施設」で生活する子どもは「かわいそう」だと見なされるのだろう。公権力はなぜ「家族を大切に」という倫理観を重要視するのだろう。その「家族」像は、いつの時代の、どこの、どのような「家族」を想定しているのか。施設に求められる「家庭的養育」の「家庭的」とは具体的にどのようなものなのか。そんなことを考える。

「家族」のことを考えるのは難しい。「家族」の問題は身近すぎて厄介な感情がしつこくまとわりつき、なかなか冷静に考えられない。でも、色んな文章を読みながら、色んな人と話しながら考えて、ここで文章を書くことで少しずつ整理していきたいと思う。

 1:「セクシュアリティと人権-『沈黙する主体』と『沈黙の権力』」石埼学・遠藤比呂通『沈黙する人権』(法律文化社、2012)P.62

ユリコ:1971年生。法律事務所の秘書、小さなNGO団体の一人事務局員、子ども英会話教室の講師、大学事務の仕事を経て、現在は児童養護施設で働いています。

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